
中国大陸の上空を飛ぶ旅客機の客室。
目的地の空港に近づき、ほどなく着陸準備の赤ランプがつくかというころ、突然、機長の機内放送が響いた。
「急病人が出ました。お客様の中に、ドクターはいらっしゃいませんか」機長は、北京語と英語で繰り返しそう尋ねている。
出張のパートナーと談笑していたDr,Tsaiは、会話を中断して機内を眺めた。
客席前方、トイレの前の床に、男性が1人うつ伏せに倒れている。
2人のスチュワーデスがしきりに声をかけていた。
Dr, Tsaiは、機長の声に応じて急患を診に行こうとした。
しかし、それより早く、1人の紳士がトイレの方へ向かった。彼も医師なのsだろう。
「自分のほかにも医師が乗り合わせていたのか。それじゃあ、お手並み拝見といくか」と、Dr. Tsaiは、ひとまず様子を見ることにして、座りなおした。
15分ぐらいたち、着陸準備の赤ランプが点灯された。
医師とスチュワーデスの声の合間に、まだ痛そうな男性の大きなうめき声が聞こえる。
どうやら、適切な処置ができていない気配だった。
Dr, Tsaiは、やおら立ち上がり、彼らのところへ行った。急患は、香港に住む45歳の男性。機内の狭いトイレで、無理な姿勢で便器から立とうとして、ギックリ腰にみまわれてしまったのだ。そうとうの重症で、床に伏したまま身動きもできずに痛みを訴えていた。
着陸間近かなのに、そのままでは席に連れて行くのも難しい。
ところが、先に来た医師は、当惑した表情で時おり急患の手首に触れ、
脈をとるだけだった。他にはなにもしていない。
もちろん、ギックリ腰の患者さんの脈を取ったって何の意味もない。
西洋医学しか修めていない彼は、医療設備のない旅客機の中で、
重症のギックリ腰にどう対処してよいか分からず、困っていたのだ。
Dr, Tsaiは、彼のプライドを傷つけないように配慮しつつ声をかけた。
「ドクター、こういう急患は私の専門分野です。ちょっと交代しませんか」
それを聞くと、彼は、ほっとした様子でカクカクとうなずき、患者さんのそばを離れた。
Dr, Tsaiは、触診と簡単な問診をして、鍼治療が有効と判断した。
患者さんに、治療の説明をして施術の同意を得、サイドバッグから、
外科鍼灸療法に使っている鍼と鍼管を取り出した。
鍼は、長さ2寸、太さ7番の特注品。
鍼管も、鍼が患者さんの体に必要以上に深く入らない工夫をした特注品だ。
腰の後ろの鍼を打つ位置を確認し、患者さんの服をめくり上げ、下着のシャツの上から、30本の鍼をスムースに打ち込んでいった。一般的なツボ鍼灸用の鍼より長く太い鍼なので、シャツを着たままでも問題なく打てた。Dr, Tsaiが自分で研究開発した、手馴れた治療だった。
外科鍼灸療法のお灸も、サイドバッグに入っていた。
しかし、その旅客機はクルージング飛行中も禁煙だった。
複数のモグサに点火して、機内で盛大に煙を出すわけにはいかない。
だから、鍼だけの治療で経過を診ることにしたのだ。
患者さんに打った鍼の2〜3本が、時おり、プルプル、プルプルと震える。
その位置の神経が断続的に緊張しているのだ。
先に来た医師もスチュワーデスも、興味津々で成り行きを見守っていた。
5分ほどたったころ、Dr Tsai,は、鍼を抜き始めた。
鍼が刺さった角度の延長線方向に、真っすぐ抜いていく。
抜き取る角度が、刺さった角度から逸れると、鍼先が患者さんの体内で体組織をこすって痛みや傷を生じる。そんなミスは犯さず、手早く鍼を抜き終えた。
鍼が刺さっていたところを、手の平でしばらく押さえた後、丁寧にマッサージした。
鍼の効果でほぐれた患部の血行を、さらに促進する処置だ。
この鍼治療は優れた効果を上げた。身動きもできなかった重症のギックリ腰が、たった5分程度でかなり軽くなり、自分で姿勢を変えて半身を起こせるようにまでなったのだ。
座席に戻すのは無理だったが、おかげでスチュワーデスたちは、急患がその場で安全に着陸に耐えられるよう、準備ができた。
もし、Dr,Tsaiが乗り合わせていなかったら、
事態は、はるかに厄介なことになっていたに違いない。
西洋医学は、救急救命手術や、病原性細菌による感染症の予防、治療などの優れた医療を開発してきた。しかし、西洋医学も万能ではない。特に最近、西洋医学では原因も治療法もわからない深刻な病気が、世界的に増えている。西洋医学は今、厚い壁に行き当たっている。
その壁を打破する人類の味方として、東洋医学が再認識されつつある。
東洋医学は西洋医学とは異なる理念から生まれ、はるかに長い歴史と実績がある。
世界の賢明な人々は、その東洋医学の真価に気づき始めた。
西洋医学ではお手上げの難病が、東洋医学で快癒した例が次々と確認され始めたのだ。
Dr, Tsaiの旅客機でのエピソードは、まさに、そうした東洋医学の優秀性を示す、象徴的なできごとといえる。